2010年2月28日日曜日

[歌詞] Hallelujah (Jeff Buckley / 1994)


Jeff Buckley (1966-1997)
今日の楽曲はレナード・コーエン御大の「ハレルヤ」を取り上げたい。御大本人も歌手だが、様々なアーティストによってカバーされている名曲であり、恐らくもっとも有名なバージョンであるジェフ・バックリィによるものを今回紹介する。
ヴィデオクリップを作成したのでリンクを切り替えました。
ぜひ大画面にして試聴後、解説をお読み下されば幸いです。(2014/07/03追記)


I heard there was a secret chord
that David played and it pleased the Lord
But you don't really care for music do you
Well it goes like this:
The forth, the fifth, the minor fall and the major lift
The baffled king composing Hallelujah
Hallelujah Hallelujah Hallelujah Hallelujah

ぼくはきいたことがある
ダビデが主を喜ばせた秘密の和音があると
でもあなたはほんとうは音楽を好んではいないんだろ?
そう、それはこんな風に進んでいく
第四音、第五音、短調が終わり長調が現れる
ハレルヤを紡ぐ困惑した王
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

レンブラント
「サウル王の前で竪琴を弾くダビデ」
この楽曲を理解するためには、旧約聖書に関する基礎的な知識がないといけない。古代イスラエル王国二代目の王であるダビデは竪琴の名手だった。旧約聖書には先代の王サウルが悪霊に悩まされているときも、彼の竪琴が王の症状を和らげたことが記されており、はじめの二つの行はその事実を背景として描かれている。
「ハレルヤ」という語自体がダビデが記した「詩篇」のなかで初出した語であり、ヘブライ語で「神を賛美せよ」を意味する。この詩全体が「詩篇」を模した構成になっていることもすぐに気づくだろう。
挿入句的な次の行において、"you"は、動詞が現在形であることを考えると、ダビデではありえない。つまり"you"は「主(しゅ)」、つまり神だろうと推測される。ここからは歌い手の個人的かつ、いささか不遜な態度が読み取れる。
そして次の行ではまたダビデの楽曲の話題に戻る。"the forth" "the fifth" "the minor" "the major" はすべて音楽用語であり、それぞれ「(音階における)第四音」「第五音」「短調」「長調」を意味している。短調とはマイナースケールと呼ばれ一般に暗い調子を持つ音階であり、長調とはメジャースケールであり、その反対に明るい調子を持つ音階だ。
最後の行の「困惑した」の具体的内容は次のヴァースで語られることになる。ここではあえて完全な文にせず、動名詞を用いながら時制を打ち消して、臨場感を感じさせている点にも注目してほしい。

Well your faith was strong but you needed proof
You saw her bathing on the roof
Her beauty and the moonlight overthrew you
And she tied you to her kitchen chair
She broke your throne and she cut your hair
And from your lips she drew the Hallelujah
Hallelujah Hallelujah Hallelujah Hallelujah

あなたの信仰は厚いけれどそれを示さなければいけなかった
あなたは彼女が屋上で水浴びをしているのを見つけた
彼女の美しさが月光とともにあなたの心を掻き乱した
そして彼女はあなたを椅子にしばりつけ
あなたの王権を打ち砕き、髪を切り落とした
そしてあなたの唇からハレルヤを紡ぎださせた
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

ウィレム・ドロステ作
「ダビデからの手紙を受け取るバト・シェバ」
ダビデ王はその治世中、自分の部下であるウリヤの妻であるバト・シェバを見初めてしまい、彼女と関係をもってしまう。そのために彼はてひどいしっぺ返しを食らうことになるが、このヴァースの初めの部分はそのことについて語っている。狂気(lunacy)の語が指し示すように、西洋では月の光が狂気をもたらすという伝承があり、それが三行目の歌詞に反映されている。

ギュスターヴ・ドレ
「ダゴンの神殿でのサムソン」
さて、ここまではダビデ王にまつわる逸話で歌詞を読解することができたが、ここからは別のストーリーが挿入されていることに気づいただろうか?かの有名な「サムソンとデリラ」である。ナジル人であったサムソンは神から驚異的な怪力を授かり、「士師」としてイスラエル全体の指導者であったが、決して髪の毛を切ってはいけないと厳命されていた。ところがサムソンは娼婦デリラに入れあげてしまい、ペリシテ人の策略により眠っている間に髪の毛を切られてしまう。ここで盲目的な劣情に溺れていくふたりの男の姿が重ねられている。ペリシテ人に捕らえられたサムソンは目をえぐられ、牢につながれる。そしてある日、ペリシテ人たちが彼らの神ダゴンへ勝利の祝いを行っているとき、神に祈り、その怪力を取り戻し、建物を崩壊させペリシテ人もろとも圧死する。最後の行はそんな姿を想像させてくれる。

Baby, I've been here before
I've seen this room and I've walked this floor
You know, I used to live alone before I knew you
And I've seen your flag on the marble arch
And love is not a victory march
It's a cold and it's a broken Hallelujah
Hallelujah Hallelujah Hallelujah Hallelujah

ベイビー、ぼくは以前ここにいたんだ
この部屋を見たことがあるし、この床を歩いたこともある
知っているだろう、ぼくはきみと知り合う前は一人で生きていたんだ
そしてぼくはマーブルアーチの上のきみの旗を見た
愛は凱旋パレードじゃないんだ
これは冷たく、壊れたハレルヤなんだ
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

これまでのヴァースが歴史上のストーリーを語ったものだったのに対して、ここからは歌い手自身のストーリーが展開されていく。歌い手のいる「ここ」には、以前にもいたことがある「ここ」であり、それ以降の文から歌い手は現在恋人と離れ孤独な状態にあることがわかる。
4行目のマーブルアーチとはロンドンのハイドパークにある凱旋門のことだが、女性器を指す古いスラングでもある。"flag"には旗という意味のほかに、「ブラシなのどの毛先」という意味もあるので、この文は性的な暗喩であると解釈される。そして愛とは凱旋パレードのように「華々しい」ものではなく、「冷たく」「壊れた」ハレルヤだと語られる。

Well there was a time when you let me know
What's really going on below
But now you never show you that to me do you
But remember when I moved in you
And holy dove was moving too
And every breath we drew was hallelujah
Hallelujah Hallelujah Hallelujah Hallelujah

昔ぼくに教えてくれたことがあったね
一体何が起きているのかを
でも今ではぼくに何も見せてくれないんだね
でも思い出して欲しい、ぼくがきみと同居しはじめた頃を
聖霊が消えてしまった時を
ぼくらの呼吸ひとつひとつがハレルヤだった時を
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

ここで歌詞は、"you"に「恋人」と「主」の二重の意味がかかる状態になる。かつて何でも話してくれた恋人が、今では疎遠になってしまい、以前のことを思い出して欲しいと捉えることも可能であり、一方で神から見放され、聖霊が消えてしまい、預言の下されなくなった王の姿を描き出していると解釈することもできる。

Maby there's a god above
But all I've ever learn from love
was how to shoot somebody who outdrew you
And it's not a cry that you hear at night
It's not somebody who's seen the light
It's a cold and it's a broken hallelujah
Hallelujah Hallelujah Hallelujah Hallelujah

恐らく神はぼくらの上にいるのだろう
でもぼくが愛から学んだことは
きみより早く拳銃を抜くやつを撃つことだけ
そしてきみは夜に叫び声を聴いたりはしない
それは光を見た人間ではない
それは冷たく、壊れたハレルヤなんだ

はじめの行にある「神」"a god"が"the god"でないということが、第一ヴァースの"you don't really care~"における醒めた視線と共通している。「神は愛なり」の言葉からわかるようにキリスト教における神は愛と同義語である。しかし「ぼく」が愛から学んだことは「きみ」を守るために、敵を撃つことだった。そして「ぼく」は「光をみる」=「希望を見出」してはいない。なぜなら「きみ」が耳にするのは冷たく、壊れたハレルヤなのだから。
(2014/07/03)Youtubeリンクを変更。訳修正。


(2014/07/21)Amazonでグレースを検索するとやたら一杯でてくるので、まとめたよ。
おすすめのレガシーエディション。
CD2枚組かつDVD付。
しかし、廃盤なのかAmazonには在庫なし。
1枚目はリマスター版、
2枚目は未発表曲とかライブとか。
3枚目は4曲分のPVとレコーディング、ライブ、インタビュー風景。
曲目は下記のリスト。




レガシーエディションの輸入版。
対訳がなくてもokな人用。
こちらも廃盤なのかAmazonは在庫もってないみたい。
業者からは可能。
単に対訳の有無だけでなく、
ディスク2 のストロベリーストリートがなかったり、
DVDのレコーディング風景がなかったりする。




デラックス版。輸入版。
レガシーエディションからDVDを抜いたもの。
こいつは曲目がのってないのだけれど、
おそらくレガシー輸入版と同じ。




そしてこいつが国内正規版。
ただしリマスター版ではない。



輸入版の旧盤。
リマスター版にあらず。
上記の対訳抜きバージョン



輸入版の新盤。リマスター版。
1曲(Forget Her)追加されてる。
この曲はレガシーだと2枚目の先頭に入ってる。



謎の2010年度輸入版。
オリジナルは1994年、リマスターは2004年。
果たして何が違うのか……




GraceとMystery White Boyの2枚がセットになったもの。輸入版。
コメントにリマスター版じゃないかもとあるけど、
時期的にはリマスター版だと思うよ。
でも"Forget Her"はないみたい。
ハレルヤは2種類聴けるよ。
MWBの曲目は下参照。







グレースとグレースEPsのセット。国内版。
これも"Forget Her"がないけど、
時期的にリマスター版じゃないかなあ。
こちらはライブ版も含めてハレルヤは3種類も聴けます。



あと、詳細不明の業者の出品とかアナログレコードとかは省いたよ。
付加価値をつけて再販するのがレコード会社側の戦略なんだろうけど、分かりにくすぎ。
彼の死後なおも出来るだけリスナーから金を絞ろうとする、レコード会社の姿勢は嫌いです。Amazon側ももっと見やすくまとめろよ……


2010年2月21日日曜日

[歌詞] The Biggest Lie (Elliott Smith)


I'm waiting for the train
Subway that only goes one way
The stupid thing that'll come to pull us apart
And make everybody late

ぼくは列車を待っている
片道の地下鉄
ぼくらを別れさせる
みんなを遅刻させるくだらないもの

第一ヴァースは静かな、そして短いイントロの後につぶやくようなエリオットの歌声ではじまる。まず描き出されるのは地下鉄を待つ主人公と、別離、そして地下鉄への呪詛である。「片道の地下鉄」が暗示するのはもはや戻ることのない二人の関係である。


You spent everything you had
Wanted everything to stop that bad
Now I'm a crashed credit card registered to Smith
Not the name that you called me with

きみは持っていたものすべてを使い果たしてしまった
悪いことを止めようとして
今じゃぼくはスミス名義のくだけたクレジットカード
きみはその名前で僕を呼ばなかったけれど

第二ヴァースではさらに二人の壊れた関係が暗示される。"spent everything" "a crashed credit card"からは現実的にも象徴的にも「浪費しつくされた」二人の姿が浮かんでくる。第一ヴァースでは全く無視された韻が、"had"と"bad"、"Smith"と"with"と綺麗に踏まれている。


You turned white like a saint
I'm tired of dancing on a pot of gold-flaked paint
Oh we're so very precious, you and I
And everything that you do makes me want to die
Oh I just told the biggest lie
I just told the biggest lie
The biggest lie

君は死人みたいに青ざめる
僕は金箔をちりばめた壷の上で踊るにはうんざりしている
ああ、ぼくらはたいしたものさ
そしてきみのすることすべてがぼくを死にたくさせる
ああ、ぼくはいまひどい嘘をついた
ひどい嘘をついただけ
ひどい嘘を

Elliott Smith (1969-2003)
この第三ヴァースのはじめの二行はさらに抽象的な表現になって、正直なにを言いたいのかがわかりにくいところだ。"saint"には「聖者」といういみもあるが、「死者」という意味もある。その後につづく"turned white"から察するに、ここでは「死者」のほうがいいだろう。次の行では"a pot of gold-flaked paint"の"gold"と"flaked"が少し間を空けて歌われている点に注目して欲しい。"a pot of gold"は慣用句であり、虹のふもとには金の壷があるとの古い迷信に由来して、「決して得られることのない報い」「思いがけない大金」を意味している。つまりこの行は"I'm tired of dancing on a pot of gold"「手に入らない希望に踊らされるのにうんざりした」が原義であり、その希望さえもが結局たいしたことがないことを表すため、自嘲気味に"-flaked paint"とつぶやかれるのだ(もちろん韻を踏むためでもある)。自嘲的なコメントは次の行「ぼくらはたいしたものさ」に連続している。
さて問題はこの歌の題名になっている"the biggest lie"が何なのかということだ。第一、第二ヴァースを通じて主人公の感情が表れているのは、第一ヴァースの"stupid"という単語のみである。ここからは恋人に対する未練が読み取れるのだが、第三ヴァースでは一転してうんざりした気分や、皮肉な調子、そして直前の「死にたくなる」という歌詞で感情が次第に高ぶっていく様子がうかがえる。そして彼は気づく。自分が言い過ぎたことに。



2010年2月13日土曜日

[書評] 遠近の回想(クロード・レヴィ=ストロース)

記念すべき第一回のレビューは、昨年齢100歳にして亡くなられたクロード・レヴィ=ストロースの『遠近の回想』を取り上げたい。

私が構造主義について多少なりともはじめて触れたといえるのが、高校時代に友人の貸してくれた内田樹著『寝ながら学べる構造主義』だった。世代的にも、浅田彰は既に過去の人であったので『構造と力』は当然知らないし、東浩紀を読むほど知的にマセてもいなかった。大学に入ってからの濫読で構造主義者たちの著作・解説書の類は幾分読んだが、きちんと体系づけて捕らえられていない、まあ早い話あまり理解できていないので、彼の死をきっかけに読んでみようと思った次第である。インタビューアーとの対話で進められる本書は短い19の断章およびエピローグから構成されており、タイトルが示すように彼の人生を振り返る内容であって、門外漢でもスラスラと読める。読み進めていくと感じたのが、レヴィ=ストロースの謙虚な人柄だ。後に教鞭をとることとなるコレージュ・ド・フランスについては、
それに、彼に対しても、他の人に対するのと同じで、自分は相手にかなわないという意識が、私にはありました。その一例を挙げますとね、そのころの私には、コレージュ・ド・フランスの講義を聴きに行くなどということは想像もできないことでした。私から見れば、コレージュ・ド・フランスは、私よりは優れた人たちだけが出入りできる特権的な場所だったのです。(38頁)
と語り、アグレガシオン実習同期のボーヴォワールとその恋人のサルトルについては、
エリポン シモーヌ・ド・ボーヴォワールとは、友だち付き合いをするようにはならなかったのですか?
 レヴィ=ストロース ありません。しかし、反感があったからでありませんよ。
 E 気が合わなかった、ということですか?
 L=S それでもありません。サルトルと彼女はすぐ有名になりました。知的世界においては、彼らは私よりもずっと上のほうの位置を占めていました。彼らには私の方こそ気後れを感じたし、彼らの方は私を必要としなかった。(27頁)
と語っている。内田樹が自身のブログにおける「追悼レヴィ=ストロース」と題したエントリーで、このような態度の裏の心情を想像しているが、私は内田樹の思い描くようなものではなく、本当に当時の彼にとってはサルトルやコレージュ・ド・フランスは別世界だったのだろうなと思う。たとえこの素直な感情の吐露が、その後の成功やサルトルを葬り去ったといわれる論争に促されているとしてもだ。(ちなみにボーヴォワールとレヴィ=ストロースは内田氏いうアグレガシオン試験の同期、ではなく、正確には「アグレガシオンの実習」の同期である)


レヴィ=ストロースの研究領域は大きく分けて二つの分野にわけられる。『親族の基本構造』(1949)にはじまる親族組織と婚姻規則の研究、そして『野生の思考』(1962)からはじまり、全四巻二千ページ以上の厚みをもつ『神話論理』(1964-71)によって完成する神話の研究である。しかしながら、彼が双方の研究で用いた手法は構造主義であり、本質的な部分では一貫している。
構造主義というのは、当時も今も、一つの研究方法なのであって、その研究は、同時代の多くの人間が気にかけていることとは、ほとんど何の関係もないということなのです。(173頁)
構造主義についてはたくさんの解説が出版されたり、web上にも解説がいろいろとあるので、一知半解の解説を書くつもりはない。最後に印象に残った文を一つだけ引用をして終わりたい。
私が言っているのは、人間は、人間がいつまでもこの地上に存在し続けるのではないこと、この地球というものもいずれは存在しなくなるのだということ、そしてその時には、人間が作り出したすべてが消えて何も残らないだろうということを十分に知ったうえで、それでも生活し、働き、考え、努力しなければならない、ということです。(289頁)